モトハチ(元蜂の宿管理人のブログ)

閉鎖したライダーハウスの元管理人のブログです

選択を放棄した先

自分は何も悪いことをしていない!と訴える人を見ている。裁判傍聴や介護施設にて。訴える人の理屈はもっともだと思う。悪いことをしていないんだから、自分が不利益を被るのはまちがっていると。法廷ならばそれはもっともなのだけれど、介護施設ではちょっとニュアンスが違うのだ。

認知症が進み、自分がどこにいるのかさえ認識できなくなってしまった場合。介護施設は意味不明の迷宮と映るようだ。知らない人々、知らない部屋、鏡に映るのはふけた老人、混乱するのも当たり前だと思う。ここはどこだ?自分の知っている家に帰らなければ!その気持ちは重々理解できる。

だが、もちろん外に出すわけにはいかない。軟禁、といってもいいだろう。自由に、歩きたいだけ外を徘徊できればいいかもしれないが、それに必要なマンパワーはえげつないだろう。

軟禁されているから怒る。なぜ、閉じ込めるのか?自分は悪いことをしていないのに!ごもっともだ。だから話を聞くしかできないが、頭の中では別の疑問が湧いてきた。

「悪い事とはなんだろう?」

ここが法廷ならばその答えは比較的明快だ。悪い事とは法律に書いてあるからだ。だが、その人個人が言う悪い事ってなんだろう。社会。存在しない共同幻想の壁紙に書かれた「~をすべき」「~をしてはいけない」みんなが知ってる不文律。空気。儒教。まじめ。人格。世論。つまりは他人からの評価。

他人からの評価を気にして、するべき選択をしなかったのではないか。選択を他人に任せて、自分を殺してしまったのではないだろうか。たとえそれが悪い事でも。いや、悪いことだからこそやるべきではないだろうか。

悪いことをやってこれば、地獄に落ちたとき「悪いことしてないのに!」とは言えない。「まあ、しゃあないか」と納得できる。いま、そんな地獄をエンジョイしている。