25の時、インドに行った。
ガンジス川は想像を超えていた。文化の対極地だった。
先日、職場で若い先輩とお話していた時、ふとこんな話をしてしまった。なぜ、インドに行ったのか?そこから得た経験はなんだったのか?面白い話はないか?そんな会話の繋がりはすべて捨てて、なんとか2行ぐらいで収めた。
自分の説明なんて短いほど良いからだ。
これで、これから自分がどんな奇異な行動を始めても「ああ、あの人はインドに行った人だから」という説明がされるだろう。相手の想像力にお任せしてしまえばいい。そこには、きっと私の知らない私がいるはずだ。
例えば、タブレットを職場に持ち込んでいる。お年寄りにYoutubeで講談を見せてみた。きっと異常なヤツに見えただろう。
だが、講談とは日本語の発声において、とてもユニークな世界なのだ。抑揚とリズム、それはお話というよりミュージックに近い。伝える力がある。目が弱ったお年寄りにも楽しめるはずだ。
持ち込んでいるタブレットはファーウェイのNotepadで、グーグルやアメリカから本気で怒られている会社の製品だ。ライター時代にオッパブの話を描き殴っていた高性能なやつ。ノートパソコンを購入してから、ほとんど使っていない板っきれだ。
講談のことを知ったのは、大阪旅行に行ったついでに、余った時間で高座に寄ったからだ。落語のおまけ的ポジションだった。だが、落語よりも面白かった。
これらのことを、延々と話し、上司に許可を取り、周囲の理解を得てから始めるのは時間の無駄だ。だって、本人が気に入らないかもしれないからだ。だったらやってみて、ダメだったら別のエンタメを提供してみればよい。なんでもやれる。だって俺はインドに行ったやつ、だからだ。
理解なんてされなくてもいい。評価なんて知りたくもない。