モトハチ(元蜂の宿管理人のブログ)

閉鎖したライダーハウスの元管理人のブログです

邦キチ!映子さんで声を出して笑い実写版魔女の宅急便を観て生きるのがイヤになる

この時代、エンタメは腐るほどあるし、映画を見るには時間がかかる。実際に最近、映画をみる機会が減った。ネトフリで1日1本見ていた時もあったけど、仕事を始めた今、そんなに見ることはなく、たまに1時間ぐらいのドラマを見るぐらい。だから映画を見るならレビューを読んで、ハズレのなさそうな作品を選んでいる。なんてツマランやつになったんだと自分でも思う。

そんな時に、この漫画をヨメがもっていたので読ませてもらった。声を出して笑った。邦画をプレゼンするJKが主人公なのだけれど、こんなところに宝の山があったとは。。と思う。例えば、キャシャーンデビルマン、実写版ハガレンなど残念な作品タイトルは知っているが、実際に見たことがないのがほとんどだろう。そこには、こんなに笑いのネタがゴロゴロしていたのだ。

そんなわけで、この漫画で知った「実写版魔女の宅急便」を見てみた(アマプラで)。「トンボがキキを貼り倒すシーンがおすすめです」という邦キチのいうとおり、本当に張り倒していた。「そんなまさか!?」と思われるだろう。だけど、本当に張り倒していたのだ。トンボは本当にそんな事をしがちなキャラクターだった。鳥人間コンテストでお笑い部門すら狙えないような自転車が原動力の飛行機をしっているだろう。あれはジブリアニメだからこそロマンのあるアイテムだったのだけれど、実写になると「お前・・・マジ?」と言いたくなる。作中でも、もちろん墜落している。しかも、最も危険と言われている高度30Mぐらいのテイクオフ直後。パラグライダーをやっていた時も、もっとも緊張する瞬間だ。トンボは、その高度から生身で落ちる。当然怪我をする、イヤ、怪我で済んでよかった。「ウゥ・・・」といって海岸でうずくまるトンボ。おなかに怪我をしているが軽傷の部類だ。お前は体重が鳥ぐらいしかないのかと思った。まあ、そんな感じのヤツなのだ、トンボというのは。とてもイヤな奴だった。物語の終盤で、怪我をしたカバを救うために、トンボとカバをのっけてシケまくっている海を渡るシーンがあるのだが、もう、発想が病気だ。「この子を救うためには、魔女に頼んで海を渡るしかない!」というシチュエーション。それに協力するトンボ、まあお前ならやりかねんと思う。問題なのは2次遭難ともいえない状況に、島民が応援しているのが怖い。キキとトンボが死んだら、コイツら、どうするんだろうか?「まあいっか、トンボとキキだし」みたいな感じで納得するんだろうか。カバを救うという正義の為なら、どんな犠牲でもいたしかたなしという事だろうか。「正しいことには勇気を出して行動するべきだ」というテーマは分かるのだけれど、その先は暴力的な価値観の押し付け。マイノリティを笑顔で殺す裁判官。社会の為を社員を殺すブラック企業のリーダー。「この後、感動の感動が!」という日テレの吐き気がするお涙頂戴。私は弱者であると叫ぶ生活保護受給者。もう手の付けようがないから、なるべく意味のない仕事をさせられている役場の公務員。そんなあたりだろう。そんな社会の暗い面をしっかりと教えてくれる映画だった。

ふっと思いつく限りをここに書いた。レビューが良い映画ではこんなことになることはない。この前、シンエヴァを観てきて友人と語ったけど「おっぱいの大きな美人のおねえさんは最高だよね」だけで終わった。エヴァにはトンボのようなアホはいないし、平和で善良なフリをした島民もいない。

Amazon.co.jp: 魔女の宅急便を観る | Prime Video

花を飾る

f:id:hatinoyado8:20210403082254j:plain

職場に花を持っていった。写真に写っている奴はその1部。半額で300円だった。あらかじめ許可はとっていたけど、持っていくときはドキドキした。なんていっても、誰にも頼まれていない。自分の意志で花を持っていき、飾る。そこに必然性はなく「なんで、このおっさん、いきなり花をもってきたの?」と奇異なものを見る目が突き刺さるのは目に見えていた。事実、刺さった。夜勤開始1時間前に職場について、咲き誇る花を飾った。利用者さんに声をかけて、植木鉢を1つ借りる。お年寄り、特に女性は花が好きだ。植え替えのコツを聞きながらやってみる。「あー、新聞紙!」と新聞を下に引くことを教わる。「わりばしある?」と余った土を割りばしでやさしく押し込む。楽しい時間だった。花は何日もつのだろう?1週間も持てば、やった価値はあったと思う。職員からは奇異な目で見られるが。

1人で夜を超えた。出来としては75点ぐらいだったと思う。静かな夜だった。コーヒー、ドデカミン、ラムネ、スマホを駆使して眠気の谷を越える。

仕事を引き継いで家に帰る。溜まったごみを出して、朝ご飯を作り、それを食べると死んだように眠る。朝日が眩しい。そろそろカーテンを変えなくてはいけない。家を買った時、ついていたカーテンをそのまま使っているからだ。それに雪山が溶けてきて、朝日が強くなってきたというのもある。「この家で、冬を超えたんだな」と感慨深い。去年の今頃は、電車の中で暮らしていた。水道なんて使ったものなら、すぐに凍って破裂する環境だった。洗濯機は排水から凍り、まったく使えなくなっていた。今年は常に水道が出る。ボイラーからの温水だ。洗濯機も使える。なんてありがたい。

4時間ほど寝ると、ものすごく元気になった。頭がスッキリ、からだも動きたい。仕事から帰ってきた嫁を連れて、ニトリにカーテンを買いに行った。ついでに花瓶を探す。また、花を飾るためだ。

花を飾ろう。花は凄い。花を嫌いな人はいないからだ。もちろん好きじゃない人はいる。だけど飾られて嫌な気持ちになるひとはいない。花のある空間と、無い空間、どっちが好き?と聞かれたら花のある空間だ。そういう意味で、花は武器だ。相手の心をつかむ武器。花は表現でもある。自分の心を表現する。枯れるのもまた良い。枯れるから楽しめる。その切なさを何度も知っているから、花は美しいのだと思う。

自分の説明は短いほど良い

25の時、インドに行った。

ガンジス川は想像を超えていた。文化の対極地だった。

先日、職場で若い先輩とお話していた時、ふとこんな話をしてしまった。なぜ、インドに行ったのか?そこから得た経験はなんだったのか?面白い話はないか?そんな会話の繋がりはすべて捨てて、なんとか2行ぐらいで収めた。

自分の説明なんて短いほど良いからだ。

これで、これから自分がどんな奇異な行動を始めても「ああ、あの人はインドに行った人だから」という説明がされるだろう。相手の想像力にお任せしてしまえばいい。そこには、きっと私の知らない私がいるはずだ。

例えば、タブレットを職場に持ち込んでいる。お年寄りにYoutubeで講談を見せてみた。きっと異常なヤツに見えただろう。

だが、講談とは日本語の発声において、とてもユニークな世界なのだ。抑揚とリズム、それはお話というよりミュージックに近い。伝える力がある。目が弱ったお年寄りにも楽しめるはずだ。

持ち込んでいるタブレットはファーウェイのNotepadで、グーグルやアメリカから本気で怒られている会社の製品だ。ライター時代にオッパブの話を描き殴っていた高性能なやつ。ノートパソコンを購入してから、ほとんど使っていない板っきれだ。

講談のことを知ったのは、大阪旅行に行ったついでに、余った時間で高座に寄ったからだ。落語のおまけ的ポジションだった。だが、落語よりも面白かった。

これらのことを、延々と話し、上司に許可を取り、周囲の理解を得てから始めるのは時間の無駄だ。だって、本人が気に入らないかもしれないからだ。だったらやってみて、ダメだったら別のエンタメを提供してみればよい。なんでもやれる。だって俺はインドに行ったやつ、だからだ。

理解なんてされなくてもいい。評価なんて知りたくもない。

礼儀正しいが間違っている

人間にはプライドがあって、自分はそれを傷つけないようにふるまっている。それはお年寄りに対してもそう。しっかりと相手をリスペクトし、1人の人間として礼儀正しく接していた。

そのスタンスはライダーハウスでもそうだった。たとえ500円だろうが、お金をもらうのであれば相手はお客様。全力で楽しんでもらう、プライドを傷つけない。なんてこったいといった人間でなければ、私は相手を人間として礼儀正しくあつかう。

「怒ってるでしょ」と言われたのが始まりだった。認知症が進んだお婆さんである。たとえコミュニケーションが取れなくても、礼儀正しく接した結果そういわれたのだ。とうぜん、怒ってなどいない。いや、こちらの誘導に従ってくれない相手に、ややストレスは感じていたが、それを表に出してなんかいない。むしろ、より礼儀正しくやっていたつもりだった。

それでも怒っているなんていわれたら、どーすりゃいいの?と思う。「怒ってないよー」と言うが意味はない。こちらの言葉がそのまま伝わる相手ではないのだ。はぁ・・なんかもう、どうでもよくなってしまった。やけくそになって仕事を片付ける。礼儀をどっかにぶん投げる。馬鹿笑い。シモねた。仕事の進行?知るかバーカ、人間なんだから何時に寝ても自由じゃん。好きなことやってりゃおっけー、怪我しなければ上等よ。ごはんなんて残してもいいし、服だってキレイに着なくてもいい。そこらへんに放尿しちゃっても別に大丈夫だ。仕事が遅いと言われても知るかバーカと答えよう。頭の良い振りはもうたくさんだ。そんな演技はもう辞めた。だいたい、面白くないやつほど、面白いやつの演技をするのはなぜだろう?いつもいつも不思議だった。

これを面白演技仮定と名付けよう。この仮定に基づくならば、自分は礼儀正しくなんてないのに礼儀正しい演技をしていることになる。

・・

・・・

確かに、礼儀なんてくそくらえと思っているかもしれない。

 

それから仕事はなんかすっごくスムーズに片付いた。おそらく、声を大きく張ったからだと思う。そもそも、お年寄りの耳が遠かったから、自分の誘導が聞こえなかったのだ。なんか1つ掴んだ気がした日だった。

 

頭のよさそうな演技をしている人ほど馬鹿だ。自分の馬鹿さを必死で隠しているからだろう。