モトハチ(元蜂の宿管理人のブログ)

閉鎖したライダーハウスの元管理人のブログです

秩父別町の過去をほじくってみたら歌舞伎がでてきた

年末に家族で集まりました。私の母方の実家は秩父別町という深川市から20分ほどの土地です。そこの土地の過去をビールのつまみに掘り下げてみたら面白かったという話です。

 

「最盛期には9500人の人口がいたんだよ!」と当時を知る町民は口をそろえて言います。大正時代に四国、主に香川からの移住者が住み着いた秩父別町。北に炭鉱の町沼田、そして北海道の玄関であった留萌と旭川をつなぐ要所でした。

 

昭和10年から20年にかけて、私のおじいちゃんが数日満州から帰ってきたときに「結婚しろ」といわれておばあちゃんと結婚。その時のことをおばあちゃん(92)に聞くと「まあ、顔ぐらいは知っていたね」ということです。

 

結婚式(といってもいまのようなものではない)を上げた数日後に、おじいちゃんは満州へ。その1か月後におばあちゃんも追いかけます。昭和の20年代前半、前線の飛行機乗りだったおじいちゃんは状況を早めに感じていたらしく「お前は先に帰れ」と身重のおばあちゃんを日本に返します。

 

その後、日本は敗戦し、おじいちゃんはシベリアで2年ほど服役。帰国後実家の商売を継ぎますが、シベリアで鍛えた胆力で一族経営の商店を切り盛りしていたらしいです。

 

そのあたり、昭和3,40年代あたりの町民の娯楽が面白かったです。イベントといえば祭りと町民運動会、この2つの存在が欠かせないようでした。

 

運動会は今の野球のペナントレースを想像しました。各地区の代表は仕事の傍らトレーニングに励み、子供たちは必至で応援したらしいです。

 

祭りはすごかったらしいです。「田舎芝居さ!」ということ。旅の劇団がやってきて大衆演劇をやるらしいです。捕物丁などではヒーローが登場すると「まってました!!」と声がかかるということです。

 

それから歌舞伎。歌舞伎は町民の心の栄養だったようです。いまでは想像もつきません。歌舞伎とは東京とかでアッパークラスの人間のたしなみだと思ってました。

 

50年前では北海道の田舎のエンターテイメントとして立派に生きていたのです。好きすぎて見るだけでは満足しなかったようです。自分たちで歌舞伎をやってしまうまでになりました。

 

それから映画館ができて「ターザンは月1回はみた」ということです。総天然色の映画は当時としては衝撃だったのでしょう。そしてテレビがやってきて「つけたらアメリカの大統領が暗殺されたってよ、戦争起きるかと冷っとしたわ」JFK暗殺のことですね。

 

テレビが国民の娯楽としていきわたってしまった後は、まあなんとなく想像がつくので興味がありません。それよりも歌舞伎が興味深かったです。秩父別町に初めてできた劇場は1年足らずで焼失してしまったのですが、そのとき町民のうわさになったのが

 

「桜宗次楼(記憶不鮮明)の演目をやるときは、踏むべき段階がある。それをやらなかったからだ」ということになったらしいです。

いいなあ、絶対火の不始末だろうけど、そのウワサいいなあ。

 

それからぐいぐいと進化した人類にとって、素人歌舞伎や町民運動会は退屈なものかもしれません。でも当時は絶対面白かっただろうな「今度の3丁目に引っ越してきたヤツの足が速い」とか噂になっていたらしいです。

 

情報を得る媒体が新聞か噂話しかないという世界。その世界にいると仮定してみれば、歌舞伎ってのはとても華やかなエンターテイメントなのが想像できます。

 

広告