「自由であること」はとても大切なことですが、なかなか難しいことでもあります。
なぜなら自由であるためには、ある程度のお金が必要です。
お金を得るためには、労働者は働かなくてはいけません。
働くということは、時間や労働力を売るということです。
それはやればやるほど自由から離れていくといえます。
だから「そこそこ働いて、やりたいことができるくらいのお金がある」
ことが理想なのでしょう。
だから我々は自由であるために、成るべく効率の良い金稼ぎ(仕事)を見つけなくてはいけません。
そのために頑張って勉強してきたリ、就活してきたのです。
ですが「金を稼ぐこと」自体にとらわれすぎて、本来は自由を獲得するための手段であるお金が、「自由であること」よりも優先されるケースがよくあります。
そうなってしまう原因は上ばっかり見ているからだと私は考えます。
もっと自由を
もっと、もっと、もっと
使い切れないくらいのお金に囲まれ、老後は何もしなくてもいいように。
そんなかなうことのない庶民の夢にとりつかれているから、大切な自由を見失ってしまうのではないでしょうか。
われわれは夢から覚めるべきです。
人間はいつか必ず死ぬし、働けなくなったらゲームオーバーになることは珍しいことではありません。
社会にとって労働者の命に価値はないのです、価値があるのは労働力であり命自体は0円であると言えるでしょう。
そんな社会で自由に生きるには、上ばっかり見てはいけないのです。
ちゃんと下も見ておきましょう。
ということで、今日も裁判傍聴について書きます。
「なにをすればいいのか」ではなく「なにをしてはいけないのか」を知る
現在の成功者のイメージは、過去に比べて変化してきていると思います。
昔はバリバリ働いて、リッチになることが成功者のテンプレでした。
ですが現在では「自由であること」が成功者に必要なイメージです。
今年であった若者たちの中には「職場の空気が死んでいたから」退職したり内定を蹴ったりした人がいます。
自分の自由を売ってまで「その会社にいたい」とならなかったのです。
それだったらお金よりも自由を優先するのは自然なことでしょう。
どんなエリートサラリーマンでも仕事でウツになったりすることがあります。
ブラック企業が問題になっても、それが無くなることは無いと言われています。
だから「ここは無理」と思ったら、さっさとやめたほうがベストな選択だと私は思います。
自由になるためには上司や成功者を見てはいけません。
見るべきは下、すなわち「なにをやったらいけないのか?」です。
自由になるために裁判傍聴をしよう
私たちは「努力しなくてはいけません」と小さい時からおそわってきました。
「我慢しなさい」とか「空気を読みなさい」とか「みんなで力を合わせましょう」と教わってきたはずです。
なぜでしょうか。
もちろん立派な社会人になるためです。
ただ、ここには重要な視点がありません。
それは
「努力しなかったらどうなるのか?」
という実例です。
「我慢しなかったらどうなるのか?」
「空気を読まなかったらどうなるのか?」
「自分勝手にやったらどうなるのか?」
どうなるのでしょう?
その実例を教育機関は示すことができません。
あくまで上を示すだけです。
それは首にコルセットをつけて上しか見上げれないようにしているようなものです。
それは自由とは言えません。
自由になるためには
「努力してこなかった人間」
「頑張らなかった人間」
「我慢できない人間」
がどうなるかを知ることです。
それを知ることができるのが裁判傍聴なのです。
裏側の人たち
裁判傍聴をすると「なぜこの人はこのような犯罪を犯してしまったのか?」という局面を説明してくれます。
そこにはどうしようもない理由もあったのかもしれません、ですが「我慢できずに」やってしまったり「努力できなかったから」そこに立っていたりします。
裁判傍聴をすればきっと痛感するはずです
「努力って大切」とか「我慢って大事」などを。
それは結局、小さい時から教わってきたことなのです。
ただ言葉だけでなく、実例として目の前にいるってことが違います。
その過ちの重さ、深さは目の前で見ないとテレビドラマと変わりありません。
リアルであることが重要なのです。
努力の大切さを本当に知るためには、努力してこなかった人を知ることです。
我慢も、協調性も、お金の大切さも同じです。
それをないがしろにしてしまった人たちがどうなるのか?を知って初めてその価値に気づくと言えるでしょう。
自由になるためには
自由になるためには、それなりの努力をしなくてはいけません。
欲しいものを我慢したり、嫌な人と顔を合わせなくてはいけないこともあります。
逆に言えばそんな事だけ守っていればいいのです。
ちゃんと努力したり、身の丈に合った生活ができるのならあとは自由です。
会社を辞めようが、ユーチューバーになろうが自由なのです。
最低限の我慢や、順法精神などがあれば、誰だって何をしたってかまいません。
何をしたっていいんです、それには「何をしたらダメか」を知る必要があります。
それは例えるなら人生を真っ白なキャンパスに見立てることです、そこに何かを書くにはまず、キャンパスの大きさを知らなくてはいけません。
キャンパスの内側だったら何を書いても構いません、自由ってそうゆうことだと思うのです。
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