この時期は大学の自転車サークルがチームになって走っている姿をよく見るようになります。
そのうちの1グループがやってきたときに感じたことがあります。
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大学生自転車サークルらしい4人がライダーハウスの前で止まりました。
おそるおそる「あのー」と一人がやってきました。
それ以外の3人は後ろで待機してます。
「・・・きょうって・・泊まれ・・・ますか?」
うーん、人数的には大丈夫なんですが、雑魚寝になれているのか見た目で判断できません。なのでハードルをあげてみることにしました。
「テントのほうがマシだと思いますが」
というと「・・・そうですか・・・」といって3人のところに戻りました。
それからしばらく4人は相談をしていたようです。
ときおり「・・・ネットでは・・」とか「・・・テントのほうがってどんな・・・」という声が聞こえます。
それからしばらくしていなくなりました。 集団行動って大変なんだなとつくづく思ったのでした。
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私は彼らの判断が間違っているとは思えません。
胡散臭い宿泊施設は確かに存在しますし、ウチの外見から警戒するのは当然です。
私もサービス業の人間とは考えられないような態度だったでしょう。 様子を見てスルーしたのは賢明な判断だったとおもいます。
しいて言うなら事前情報を仕入れておくことをしなかったこと、行動を決定するのに合議制だったことがまずかったのではないでしょうか。
意思決定をするときに自分の意見を言わないのは、日本人として素晴らしい教育を受けた証拠と言えるでしょう。 ただそれだと意思決定に時間がかかりすぎてしまいます。 彼らに必要なのは強烈なリーダーシップをもった人物だと言えるでしょう。
それは生まれにくい環境かもしれません。
「私はこう思う」
と誰かが言えば、きっとみんなその意見を尊重して引っ込んでしまうからです。
そうなると、最悪のライダーハウスだったときの責任が発言者に回ってくることになります。 失敗の責任は発言者に回ってくるのです。
その責任は本来みんなのものかもしれませんが、やはりリーダー=責任者の図式になるでしょう。 つまりリーダーとは失敗を受け入れる存在であるといえます。
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失敗を受け入れたくないのなら、リーダーになってはいけません。 自分の意見は押し殺して人の言うことを聞いていればいいのです。
そうすればずっと矢面に立つことなく、批判者の立場でいられるでしょう。
リーダーは失敗の責任を負わされますが、代わりに自分の意見を通すことができます。
そうなると同じ立場ではいられなくなります、仲間だった間柄でもリーダーになってしまうと距離が生まれてしまうでしょう。
それは孤独といえます、自分の意見を通す代わりに孤独になってしまうのです。
でも自由と孤独はセットですからしょうがありません。
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大学生のサークルで集団行動するということは、人の言うことをちゃんと聞けないとダメでしょう。
それは日本の社会に必要な人材と言えます、自分の意見を言うよりも人の意見を聞く人間のほうが社会では重宝されます。
ただ孤独ではなくなりますが、同時に自由も失ってしまいます。
そうならないためには失敗を受け入れ、自分の意見を言うしかないのです。
つまり「自由とは失敗を受け入れることである」と言えます、それがいやならずっと人の言うことを聞いているしかないのです。