いま働いている工場の打ち上げがあり、酒の席で上司に「中途半端はやめろ」と言われた。旅人を紹介するという社会的意義みたいなことを私は主張したが、それは嘘であると。「旅人はお前の保護なんていらない」とのことだ。そして「旅人にお前の生き方を見せなければいけない」と〆。
至言を頂戴しているとビンビンに私のセンサーが反応した。まとめれば「自分のやりたいように生きろ」ということだろう。人のためになることをするなんて、嘘だ。いや、そんなことはない、俺は人のために何かするのが好きなんだ。いや、嘘だね、面白いからやっているんだ。違う。本当だ。葛藤は3日間ほど続いて、今も継続している。
工場をクビになるわけではないようだ。「来たければ、使ってやる」と言っていただく。死ぬまでそうさせてもらうつもりだったけど「生き方」を見せるってのに悩んだ。ダサいことはできない。いままで、私を見てくれた人たちのためにも(また、人のためって言ってる)自分のできる挑戦を続けていくべきだ。情熱を掻き立てられる、自分の道を、刈払いながら進まなければならない。他人のためじゃなく、自分のために。それが生き方を見せるってことじゃないか。
工場勤務をしながら、つつましやかに生きていく。それは悪いことじゃないけど「お前には、もっと面白いことができるだろう?」と言われた気がした。「人のため」なんて言ってないで、自分のやりたいことをやればいいのだ。
自分のやりたいこと?自分のために生きる?そんな生き方は知らない。とても難しい問題だ。何層にも重ねた、嘘のバームクーヘンの内側にある芯。1枚1枚剥がすようにそこに向かっていく。そこにきっと、自分のやりたいことってやつがいるはずだ。
人のためという嘘。
社会のためという嘘。
大人だからという嘘。
お金のためってのも、きっと嘘だ。俺はそんなに金は必要じゃない。
3日間考えて、工場が終了した。銭湯に行く。洗い場に座ると、鏡の前に自分がいる。目をつぶると消えるが、手で触るとやっぱりいる。40歳を超えて、体がどんどん弱っていくが、まだ動く。触ることも見ることもできるが、自分のやりたいことがわからない。いままであった「使命感」がなくなると、こんなにも道は広がり、自由で、寂しいのか。
でも、きっと見てくれているんでしょう?