見城徹「読書という荒野」が実によかった。
「夢」「希望」「理想」「情熱」「野心」「野望」について熱っぽく語る人間は嫌いだ。これほど安直な言葉はない。
中略
結果が一つも出ていないで語るそんな言葉は豚の餌にでもなればいい。悪戦苦闘して匍匐前進している人たちは決してそんな言葉を口にしない。何かを目指すものは「地獄」と「悪夢」を身をもって生きたらいい。結果はそこからしか出てこない。
仕事が進まなくてもがき苦しんでいる。楽になる方法はたった一つ「仕事をする」だけなのだ。それでもできない。多動症がムクムクと自分の尻を椅子からはがす。
「ヘイ、いい天気だぜ、冬山チャレンジしよう」
とアマゾンでアイゼンとかを買わせるのだ。そのタイミングで「神居岳いこうよ」といつものOさんからお誘いがあった。
いつもだったらノータイムで「いきましょう」と言っていたのだが、あいにく予定を入れてしまった。それも年金事務所に行くという最悪なヤツ。年金事務所がぼったくりバイク屋ぐらいキライなので、今から苦痛しかない。
あそこには「死」という言葉が良く似合う。働いている人には申し訳ないのだけれど、生きている感じがしない。年金事務所ではなるべく呼吸したくない。微量の毒が混じっている。
同じ「死」ならもっとのたうち回って、苦しみのうちにとおもう。微量の毒を吸い続けて死ぬのとは生きている密度が違うからだ。
土田世紀の「鐘」を読んだ時にこんなセリフがあった。
「たとえ3日でも、自分に正直に生きることができた」
ヤクザが足を洗って堅気の道をあるくのだけど、3日目にヒットマンに殺されたときのセリフだ。このシーンでボロボロ泣いた。生きるとか生き方というのは時間じゃない、姿勢だ。