北海道は美瑛町でライダーハウス蜂の宿の管理人をやっています。 出身も北海道で、大学卒業後5年間、郵便局員として働いていました。 入ったときは公務員だったので、元公務員ということになります。
せっかく入ったよい職場でしたが、どーしても保険が売れませんでした。 一日中保険を売るため走り回ってましたが、成績はぶっちぎりの最下位、28歳で退職することに・・・
辞めるにしたって自分だけの問題じゃないので、誰かに話すたびに頭を悩ませました。 どうしたって公務員を辞めるやつは、社会人として失格の烙印おされますからね。 で、人生の分岐点に突っ立ってたらインスピレーションがドカーンと落ちてきたんです。 それは
「 好きなことをする会社を立ち上げるので辞めます 」というものでした
当時、休みのたびにカヤックで北海道の川をくだっていたので、カヤックガイドの会社を立ち上げることにすれば他人を説得できるし、アルバイトでも「 社長とバイトのダブルワークさ! 」と言える。
これだ!と感じた僕はさっそくB5の紙にこの計画を印刷しました。 タイトルは「 PLAN-A 」、おそらく最低レベルの企画書です。 でも自分のプランが誇らしくていろんな人に配って回りました。
で、人生の師匠に出会いました。 正確には生まれた瞬間から出会ってる人でした、僕の兄です。 彼は企画書を見てすぐに 「 じゃあ、今度ライダーハウスやるからそこでやればいいじゃん 」と言い、僕の最低レベルの企画書はあっさりとパスしました。
兄の下でライダーハウスの立ち上げ、居酒屋の立ち上げ、飲食店のやりくり、ネットを使った小遣い稼ぎ、ほんとうにいろんなことを教えてもらい、それは現在でも生きています。 ただ、カヤックをするタイミングは減って、「 まあ、趣味でいいかな・・・ 」と思ってたところにクサナギくんというライダーと出会いました。
クサナギくんにこれまでのことや、PLANーAという企画書のことなどはなしていたら「 じゃあ、僕やりたいです 」と参加表明。 ちょっととまどいました「 で、でも殺しちゃうかもしれないよ 」といったら 「 べつに死んでもいいです 」とカヤックツアー決定。 最初のお客さんでした。
その後、ちょくちょくカヤックのお客さんを増やしていたらライダーハウスの前の道路が拡張されることが決定しました。 立ち退きです。 兄はすぐにべつの建物を用意して、僕もついていくつもりだったんです、しかし「 カヤック中はどーしてもケータイが通じない 」ということがわかり、兄についていくならPLAN-Aはここまでということになります。
悩みました、カヤックを捨てることはもう難しくなっていたんです。 これさえできれば死ぬほどビンボーでもかまわない。 うん、そうしよう。 僕は一人でやってみることにしました。 31歳になってました。
一人でやるライダーハウスの候補地である美瑛町にはちょくちょく来ていたのです。 そう、カヤックのゲレンデとして美瑛川が最適だったんです。 リスクが少なく美しい川でした。 「 どっかに空いてる空き家はないかな? 」とドライブしてみたら、本当にあっさりと「 ライダーハウス蜂の宿 」( 閉鎖中 )があったんです。
保険を売ることにくらべたらだいたいの交渉は楽チンです。 保険は僕のことを気に入ってくれた人に、僕の気に食わない商品を買わせることでしたが、今回は僕のことを気に入ってくれればお金を払うのです。 家賃もこちらの提示より安くしていただきました。
ライダーハウスの一部と思っていた電車の車両、これが飲食店として使われたものとわかり、3年やった居酒屋の知識がまったく無駄にならずに生かされました。 それから6年間。 理想としていたものが現実になってきたときにとある事件が起きました。
カヤックガイドをしていたときに水死体を発見したのです。 発見者は水死体の女性のご主人でした。 消防と警察を呼んで、すべてが終わったときに僕はご主人と抱き合い「 愛してたんだ・・・」 「 つらかったね・・・ 」と慰めあいました、そのとき頭の中に 「 こんなつらい思いをどうしてこの人はしなくちゃいけないのか? 」という疑問がわいたのです。
僕らが発見した人はうつだったのです。
次の日から「 どうすればうつにならないか? 」という質問をいろんな人にぶつけてみました。 いろんな本も読んでみました。 はっきりとしたことを書いてある本に当たりました。
しかし、その本は正確な表現を心がけていて、ちょっと読みずらいんです。 それじゃあ、僕がやることはその本の口語訳です。 本を味噌樽とするなら僕の文章はみそ汁です。 専門家でないことを免罪符にみそ汁を作っていこうと思います。