私が大学生の時、高校時代の友人から電話がかかってきたことがあった。あの電話をいまだに忘れることができない。
「おう、俺は今浪人中だけど、絶対お前よりいい大学入ってやるからな。それにいますっげーいい女を仲良くやってるんだ。」というような話を一方的にしゃべりまくってくるのだ。私は「ああ、そうか、がんばれ」と適当な相槌しかうてなかった。20分ほど彼はしゃべり続け、そしてどこかで死んだらしい。
そのことを知ったのは3流私立文系大学を何とか卒業して、なんとか公務員予備校に通わせてもらい、なんとか地元の郵便局に潜り込んだ後だった。その話を聞いた時は驚いたけど、どこかで「ああ、やっぱり」と思わざるを得なかった。あの電話は病んでいた。
彼は私と同じで勉強ができるほうではなかったけれど、かといってやさぐれるようなタイプでもなかった。お互い部活もやっていたけど、運動神経は悪かった。つまり男子高校生としてはパッとしない種類だ。
「なにかを恨んでいたのかもしれないな」と思う。たまたまいい塾の先生に出会って進学できた私。彼との違いなんてそれぐらいだった。私が札幌でおちゃらけている時間、どこかでなにかを恨み続けていたのではないかと思う。
郵便局の営業車でサボりながらラジオを聞いていたら「自傷行為は恨みの表現である」と加藤タイゾー先生は言った。なるほど、たしかに。
日記
札幌の円山動物園へ行った。シロクマの子供がかあわいいーー!!
帰りの車内で「怒りと恨みの違いとは?」と言う話になる。私はたぶん誰かを恨んだ経験が無い。郵便局の保険屋さんをしていた時、あまりのふがいなさから自らを怒った。が、あれは恨みではない。
つまり恨みとは自らに向けるものではないと思う。誰かに向ける呪いだ。怒りはモチベーションになったりすることがある(ライダーハウスは保険が売れない自分への怒りのモチベーションでやってきた)が恨みには無い。
怒りは熱いが恨みは冷たい。べちゃぁっとしていて、長くとどまる。そして報われない。
恨みは決して何かを生み出さない。実になることが無い。誰かを恨んでその恨みが相手に伝わることは絶対にない。むしろ恨まれたほうはピンピンしているだろう。それぐらい無力だ。幽霊ぐらい無力。
まことに残念ながら。神様的な人が恨みを持っている人のことを見ていて、その不公平をミスティックなパワーで是正してあげるなんて絶対にないのだ。恨みは伝わらない。自分の中で腐っていくだけ。
そんなことを思ったのも、このブログから
警察学校ですさまじいイジメを受けて辞めさせられる。
主人公は教官を恨む。
たぶん、その恨みは伝わらないだろう。
教官は長年警察学校で多くの警察官を育て上げた立派な人として、きっと今も素敵な余生を送っているんじゃないだろうか。
人間の恨みの力なんてそんなもんだからだ。
もう許してあげてほしい。消せない恨みを抱えて生きるのは、死ぬよりもきついことだと思う。
美大に行きたいと話す娘に、母親が「絵だけじゃごはんは食べれませんよ」と言っているのを聞いて、ああ、その時は死ねばいいのだと思った。やりたいと思うことをやって、食えなくなったのならば、その時は死ねばいい。絵の道を諦め、数年後に母親を恨む人生を送るより、よほど清々しいことだと思った。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2018年5月8日