テレビを見ていたら
「日本のタクシーの自動ドアにおどろいたよ!」
という人がいました。 たしかに、考えてみればちょっと異常ですよね。
でも、小さいときからタクシーのドアは自動で開け閉めされるモノだと思っているので、その異常さに気が付きませんでした。 なんで、あのようなスタイルになったのでしょう? 調べてみました。
なるほど、おもてなしではなく「ドアを閉めないで出て行っちゃうお客さん」がいたからなんですね。 いちいち運転席を降りて閉めに行くのがめんどくさいから、あのような自動ドア文化が生まれたのです。
しらべてみると普通ですが、タクシーの自動ドアだけではなく、人から言われてその異常さに気づくってことは結構あるのです。
それは視点の違いだと思います、生活の中で当たり前だと思っていたことは、実は他人にとっては異常なことで、それは自分だけでは自然と気づきにくいものです。
これだけ情報にあふれている社会でも、自らの異常さを知ることは出来ないのです。 その理由は、人間の性質によるものでしょう。 その性質とは
「人は知りたいことしか知ろうとしない」ということです。
どんなにアンテナを張っていても、それは結局自分の知覚野だけのエリアに過ぎません。 まったく未知のものを、言葉だけで学ぶことは出来ないのです。
たとえば、ニュースなどで海外の知らない文化や情報を学んだどします。 「へーそうだったんだ」とうなずきますが、それはデータを頭に入力しただけの話であって、知識と言うには薄いものです。
データには体感が備わって、やっと知識になるのです。 私は25歳のとき、インドに旅行に行きました。 ガンジス川というのがあるのは知っているけれど、本当にあるのか確かめたかったのです。 本当にありました「聖なる川」は汚かったです。
でも、汚いけど「聖なる川」ってのはわかるんですよね。 死体と排せ物がまざった水を使って、沐浴やら洗濯やらチャイをつくったりやらをしてましたから。
そんなのをみると「ああ、聖なる川ってこうゆう事か」と体感で知ることが出来るんです。 私の中に(物理的なものを含めて)ガンジス川が入ってきたことがわかりました。
ネット社会では大体のことを知ることができます。 でも、それだけだと新しい視点は生まれません。 外国人が日本のタクシーの自動ドアに驚いたのは、日本にやってきたからです。 私がガンジス川についていくら調べても、その視点は日本の自分の机から動いてはいないのです。
視点を得るには体感するしかありません。
行きたいところには行ってみるしかないし、
やりたいことはやってみるしか知る方法はないのです。
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