もしも定時で帰れたら というハッシュタグがある
ということをこのブログで知った
http://www.ikedahayato.com/20161210/67692994.html
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「 妻と子供を迎えにいって、今日なにあった?って日付が変わる前に話す 」とか切ないなあ…
生きてる実感とかあるんだろうか?こんな話がある。
ムツゴロウさんが本で書いてたんだけど、トルコの 市場で魚を売っている日本人に出会ったんだって。「 今度話そう 」と別の日に会って、彼の人生の出来事がわかったんだけど、もともと日本のエリートサラリーマンだったんだってさ。
毎日懸命に働いて、働いたんだけど働き過ぎちゃって、妻は出て行き仕事はダメになる。 仕事を辞めて死に場所を探す放浪を始めるんだけど、 トルコの売春婦にはまっちゃって「 ここで全部使って死のう 」と思ったんだって。 売春婦も「 実は家族が病気で… 」とミエミエのうそをついて彼からお金をもらうんだけど、最後には良心に耐えられなくなり「 実はアレは嘘なんです 」とあやまるのね。
そこで彼は「 知ってるよ、いままでありがとう 」と残りのお金をほとんど渡して、トルコで魚売りになったんだって。 「 やりまくったら死ぬ気が無くなったんです 」というのが彼の放浪のオチだったんだけど、良い話だわあ。
いや、セックスが最高とかそういう話じゃなくてさ、なんというか「 生きる気力 」みたいなものってどこから来てるのかなあ?という話だと思うのよ。
もしも定時で帰れたらの人も家族のためにって頑張っているんだろうけど、もしその家族がいなくなっちゃったら生きる気力はなくなっちゃうんんじゃないかしら?
きっとね、生きるのにそんなに沢山のお金やモノは必要ないのよ。 トルコで魚を売ろうが、美瑛でライダーハウスをしようが、わりとなんとかなるってか、むしろ 「 生きる 」を 実感するにはこっちよ、こっち。 光の存在は陰がないと認識できないように、生きてることを知るには死が見えないと分からないのよ。
安心の未来や、充実した蓄えや、右肩上がりの業績や、絶対につぶれない会社にいると「 生きてる 」って実感できないのは死を見えなくなるまで遠ざけちゃってるからなのね。
トルコの魚売りが生きることを選択したのは、それらを全部失って死が目の前までやってきたから何じゃないかしら。
一度手に触れるぐらいまで 死 が目の前までやってきたのなら、あとはその時の気持ちさえ忘れないでおけばいいのよ。
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