前のブログで「 こんなことありましたよ~ 」って軽い気持ちで書いたら。
「 お前・・・それダメだぞ、やばいぞ 」というコメントがあり、
出来ればもっと具体的にどこがやばいのか教えて欲しかったのだが、
匿名のコメントということもあり、会話にはならなかった。
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いまもそうだが、そのときのブログも一日三桁の来訪者が来ることもない、ネットの日記帳のようなものだ。 それでも、一方的によくわからない点で怒られてしまったことに、ちょっとへこんだ。
それが、4桁の来訪者が来るブログだと「 ネットの瘴気 」とも形容される、
匿名の批判や悪口がやってくるらしい。
批判される人は、どんな気分になるんだろう?
こんな湿っぽい問題の解決策はないのだろうか?
うっそでーす法
「 ああああああああ!! ポテトサラダにあたまから突っ込みたーい!!!! 」
( 美瑛町の方言で「 こんにちは、みなさん 」の意 )
「 左手は山本、右手はミサコ。 なーんだっ? 」
( 美瑛町の方言で「 こんどnoteに有料マガジン発行するから、買ってね 」の意 )
「 桃から生まれた桃太郎、では金から生まれたのは? 」「 悲しみ・・・ 」
( 美瑛町の方言で「 在宅ファンディングで月100万円稼ぐ方法を教えます。 詐欺師と思われるのもイヤなので、無料です 」の意 )
って、うっそでーーーーーーーーーーーーーす!!!!
ってやれば、アホらしくてまともな批判なんて来ないんじゃないかな?
まあ、読まれもしないだろうが。
そう、読まれるために書いているのに、批判が怖くて表現を丸めてしまうことがある。
( ってイケハヤさんの本に書いてあった )
「 批判がいやなら書かなきゃいいじゃん 」って意見があるかもしれない。
しかし、読まれるために書く
ってのは計り知れないメリットがあるのだ。
軽い言葉は微塵の軽さで飛んでいく
とにかく、個人の意見を発信しやすい世の中である。
軽い書き込みやコメントを本気にしちゃうボーイもいるだろう。
例えば、太宰治の「 晩年 」によせたコメント。
「 これまでの小説は面白くない、僕の小説はそんな過去のものとは違って面白いですよ 」って太宰は言っている。
ネットがある今、そんな発言をしちゃったら、炎上間違いなしだろう。 太宰の治たる肝心な部分が徹底的にさらされ、笑われ、玉川上水に入る前に自殺したかもしれない。
軽すぎる言葉や悪意が、ふわふわとネットをただよっていて、ちょっとでも弱みを見つけたら「 ここだ! 」って流れ込むんだろう。
小説家、東直己は
「 貧しさと安っぽさが広がり、一瞬の感情で、言葉を発して、その応酬だけで『文化』が形成されていくんだろうか? 」
と作品で述べている。 ( 探偵、暁に走る )
便所の落書きを見て育った人間は、便所の落書きロジックで会話をして、便所の落書きしか受け付けなくなるから、発信者は便所の落書きのような言葉を書くしかない。
「 じゃあ、何も言わなければいい。 」と便所の落書きのような思考の人間は言うだろう。 批判が怖いなら何も主張しなければいい。
違うんだ、便所の落書き思考から脱却して、筋道を立ててものを考える人間に成るためには、誰かに自分の思いを伝えられなくてはいけない。
我々、日本語文化には「 空気 」という独特の間があるから、沈黙は美とされてきている。 それは日本語の性質なんだ。 主張しなくて良いなんて社会はありえない。
つまりは
私は何者で、何がしたいのかをアピールしなくてはいけない
とある旅人がヨーロッパを旅したとき、こういわれたそうだ。
「 他民族が交じり合うこの土地では、『 Who am I 』がしっかりといえないと、どのコミュニティからも排除される 」
自分がどんな人間であるか? それを簡潔にわかりやすく説明できなければ、異文化の輪に入ることなど出来るわけがない。 なぜなら、どんなやつがいるかわからないからだ。
日本に住んでいて、日本語をしゃべれれば、こういった参入障壁は見えない。
だが、見えないだけで、確実に存在する。
自分を他人に主張できなければ、あなたを理解してくれる人はいない。
そら、言葉じゃなくても通じるものはあるかもしれない。
が、ほとんど言葉だろ?
自分を主張して傷つくのがイヤになると、軽い言葉の便所の落書きから出られなくなってしまうだろう。
そんな人生は本当に貧しい
今週のお題「方言」
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