モトハチ(元蜂の宿管理人のブログ)

閉鎖したライダーハウスの元管理人のブログです

ベトナムにいったときの話

ずっとインドに行きたかった。

初めてチャンスが来たのは23歳の時、郵便局員の時で、

10日ほど休暇をとり、「 インドに行きたいんです 」って

会う人会う人に言ってたら

「 いきなりインドはよせ、タイかベトナムで修行しろ 」と兄。

海外旅行の経験が多い兄の言葉に従い、最初の海外はベトナムに変更した。

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初日

ホーチミンの空港に着いたのは夜。 窓から見える夜景は細々としていて

「 今日どこで眠るのか? 」と心細かった。

空港に降りるとすごい客引き、全部無視してバイクタクシーを捕まえる。

「 この本に載ってる、ここに行ってくれ、カネはこれだけ払う 」

バイタクのおじさんは「 まじで!?やるやる! 」って顔をして

初交渉は成功した。 ( 後でわかるが、相場よりかなり高い金額だった )

 

 外人向け安宿街についても、どこに泊まればいいかわからない。

テキトーにドアを開けて「 vacant room? 」「 noー 」

んーこまった、やはり何とか初日くらいは予約しておくべきだったかもしれない。

そんな僕に子供が話しかけてきた「 ホテル? 」「 イエス 」「 カモン 」

で、子供についていく。 普通のホテルのロビーにいるおばさんと交渉、

「 50ドル! 」「 え!高い! 」「 50だ! 」「 んーしゃあないか 」

まあ、寝れるだけまし。 荷物を置いた後、ロビーでグエンくんという少年と話す。

 

2日目

さて、ベトナムが初海外バックパックにむいているのは、ツアーガイドの会社が発達していたからだと思う。 そのうち

1. シンカフェ と

2. キムカフェ の2つが当時の二大勢力だった。

シンカフェは地球の歩き方に「 あまりよろしくない 」と書いてあったので、

キムカフェに行き、メコンツアー2泊3日に参加した。

ホテルでチェックアウトしようとすると、受付の女の子が

「 15ドルです 」「 え?15? 」「 はい、15です 」

昨日のおばさんはなんだったんだ?フィフティとフィフティーンを勘違いしていたんだろうか? ここら辺から、ベトナムの物価の安さを感じることが出来た。

 

ホテル屋上のカフェで初ベトナムコーヒー。 路上では人の行きかう熱気がむんむんしてる。 コーヒーは甘く、濃くておいしかった。 おお、いま海外にいるんだな。

 

キムカフェのメコンツアーには7人ほど参加していた。 ドイツ、イタリア、フランスの夫婦たちと僕。 自然とバンの助手席に座ることになり、ホーチミン市内を観察できた。 雑多としていて、交通ルールは甘い、が、エネルギッシュだ。

 

カントーという街について、この日は終了。 そこらへんを散歩する。 人だかりのある屋台があったので、並んで買ってみた、「 おこわ 」だった。 うまい。 人生で一番うまい。 ここらへんから、ベトナムの食い物がめちゃくちゃうまいことに気付いた。

 

3日目

水上マーケットを見学する。 南ベトナムは陸地とメコン川で出来ている。 いちいち船から下りるよりも、水の上で出来ることはやったほうが便利なんだろう。

ジャングルクルーズのようなことをして、飴工場を見学する。

ガイドのおじさんが果物売りから果物を買っていたのでまねして食う、うまい。

こんなうまいものがそこらへんにぶら下がっているってのがカルチャーショックだった・ 今思えば、あれはドラゴンフルーツってやつだった。

他にもガイドのおじさんがそこらを歩いている物売りから買うものは、どれもうまかった。 ただ、バンで行くちゃんとしたレストランはもれなく不味かった。 まあ、いろいろあるんだろう。

カントーを出発した後、カンボジアとの国境の町、チャウドックにいく。 

ガイドのおじさんが「 ○時にここで待ち合わせしてレストランにいく 」といって解散。 部屋に向かう途中に、日本人っぽい人がいたので「 こんにちは 」と声をかけてみる「 こんちはー 」おお、こんなところで日本人。 ガイドのレストランには行かずにこの人とチャウドックの街を散歩することにした。

彼は旅慣れしたバックパッカーで、いろんなことを教えてくれた。 インドの病気は怖いこと、バナラシの夜だけは行かないほうがいいこと、筋を通せば犯罪にはめったに巻き込まれないこと、ただバナラシの夜だけはマジで注意したほうがいいこと。

チャウドックの街でビールを飲みながらベトナム人とふざけあったり、珍しい食べ物をたべたりする。 とても楽しかったが、帰りにトラブルが起きた。

たしか50円くらいでチャリタクにのってホテルまで帰るとき、ドライバーが

「 やっぱり100円な 」と言い出したのだ。

「 何だとこのやろう! おろせ!!!バカヤロウおろせ!! 」と怒り出して

気がつくと僕らを取り囲む人の輪。 それにも構わず

「 ユープロミス! ユープロミス! 」とやっている彼。

「 50円くらい、いいじゃんよ・・・・・ 」と僕。

ある程度事情を汲んだ女性が入ってきて、ドライバーのおじさんの話を聞く、

「 あんたは50円で走りなさい 」

おお、勝った・・・・

「 筋を通せば大丈夫、日本人だからってナメられてるんだよ 」と彼

僕はなんとなく、海外旅行のコツをつかんだのだった。

 

3日目

バンの出発までぶらぶら散歩。

カフェではたらくおばさんの似顔絵を書いて、横にいるベトナム人にみせたら

アイスコーヒーをおごってもらった。 

さて、今日はカンボジアクメール人の村まで行くはず。

ベトナムカンボジアでは人種が違う。 

住んでる環境も、商売の上手さも違う。

それが、カンボジアの悲しい歴史からきているのかわからなかったが、

つれてこられた国境の村は「 原始的 」というイメージで

電気は、ぎりぎりの明かりしか来ていないようだった。

足でやるバドミントンとバレーのようなことをしていたので、混ぜてもらう。

とても難しい。

持ってきたペンや、小物をつきまとってくる子供にあげた。

 

チャウドックからの帰りにベトナム戦争の跡地によって、沼地を一周するようなことをしたり、動物園のようなところによったりした。 バンでつれてかれるレストランはどれも不味い。 ガイドのおじさんは悲しい雰囲気をしている。 戦争のとき、爆撃されないように目立つカラーにした教会とかいろいろ紹介してくれるが、戦争をガイドしてることにまだ納得がいってないようだ。 

 

ガイドツアーが終わって、ホーチミンの外人街に戻る。 子供が「 1000円でどう? 」「 部屋を見せてくれ 」立派な部屋だったのでok. 夜、家族が床で寝ていたので、この部屋は彼らの部屋だったのかもしれない。

 

4日目

さて、今度は自分で動いてみよう。 デパートで日越語辞典を買ったので、それを使って駅に行く。 「 ガー 」と言うらしい。 バイタクのおじさんに値段交渉して乗る。 おじさん道がわからない、どっかに寄り道してやっと「 ガー 」へ。

「 寄り道したから倍払え 」「 ふざけんな、ユープロミス!ユープロミス! 」

あっさりと引き下がった、チャウドックの経験が生きている。

 

基本的に社会主義であるベトナムの公共交通機関は

「 私たちは仕事をしたくありません 」というスタイルを貫いている。

3つの窓口にかなりの列が出来ているが、たらい廻される。

「 隣の窓口に行って 」「 ふざけんな、そこは最初に行った! いいから、一番安い席をよこせ! それだ!それ! 」みたいにカネをねーちゃんにつきつけて、やっと列車のチケットが買えた。

軍事用として使われていた列車は、窓に鉄格子がはまっていたが、世界の車窓からを始めてやったこともあり、とても満足してた。

 

ハプニングが起きた

隣の席に、ベトナム人にしてはケバイ服装の女性が座った。 後ろの人としゃべっているようで、体をひねるたびに体が当たる。

せっかくなので、辞典でナンパ 「 かわいいね、どこまで? 」「 ありがと、ハノイ、どこまで?」 「 ニャチャン 」 「 えーハノイまでいこー 」「 わはは 」といい感じだった。

 

・・・・・もてているのか?

 

 

 

 

 

 

いままで、日本人には目向きもされなかった俺が・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

もててるのか・・・・・・・!

 

 

 

 

 

 

 

なんと彼女もニャチャンで降りるという。 

では、奮発して1万くらいのホテルに泊まった。

 

そこで、童貞をうしなったあと・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

貴金属屋につれてかれた・・・・・・・・・・・

 

え?え?さっきまで、ベトナム語の数の数え方とか教えてくれたり優しかったじゃん? 「 買い物行こう 」と夜のニャチャンにでたとたんに、あれ?あれれ?

「 あなたはこれ( 8千円くらいのブレスレット )を買うべきだ! 」

って、

 

 

ひょっとして・・・・・・

 

 

 

 

 

あなたは・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

プロ!?

 

 

 

 

あーーーーーーそっかあ。 そーだよなあ。 うん、そうだよ。

なーんで気付かなかったかなあ・・・・・・

もてるわけないじゃんねー、うんそうだよねー、はいはい、買いますよー

 

その後、ハノイ行きの列車に乗る彼女を見送り、すべてを見ていたチャリタク

のおじさんに

「 今日は飲むぞ、ぜんぶおごるから友達連れてきていいよ 」とそこらへんの

屋台でベトナム式飲み会を開いた。

 

 

 

 

気がついたらでかい人の輪ができていた、20人はいるだろう。

 

 

 

ベトナム式飲み会は、ペットボトルに入った濁り酒を一つのお猪口で飲み続けるのだ。

おちょこに注がれた酒を「 クイッ! 」と飲んで隣に渡す。 回ってきたペットボトルで注ぐ。 それが繰り返される、壮大な間接キッスだ。

べろんべろんに酔っ払った。

いったいいくらになるのだろう? ・・・・・まあいいか、もってけドロボー

おじさんよう、聞いてくれよ・・・・チェリーだったんだぜ・・・・

ジャパンマネーで女を買うまねなんて絶対したくなかったんだぜ・・・・

おっ?さらに友達か?いいぞ、こいよ

「 いや、ここから( 5人以上 )はオレの友達だ、お前は払わなくていい 」

「 えーいいよー 」

「 それよりも、寝ろ。 」

ジェスチャーつきで、そういわれた。 2人のベトナム人に肩を借りて、なんとか部屋に帰った。 いくら払ったから記憶にない。 が、たいした金額ではなかった。

 

5日目くらい

さて、男になった初日。 傷心していた・・・・

とても移動できるテンションじゃない。 

街を歩いていたら子供の客引き「 1500円!いい部屋! 」「 見せて 」

ベトナムのリゾート地、ニャチャンでこの価格。 ひどい部屋かなと思ったら、海風の入る、南側、シャワーつき、清潔なベッド。 いい部屋だった。

寝るとこも決まったので、観光ガイド、シンカフェのクルーズツアーに入る。

白人のリア充ベトナム人の新婚夫婦にまざって、スノーケリングやフネからダイブとかやったが、それを楽しめるテンションじゃない。 もってきた桂獏山先生の

「 書100話 」を読む。

・・・そうか、ただのまるって子供のほうが上手く書けるのか・・・

などと感心してたら夜になった。

 

夜のニャチャンを歩いて、市場に行ったり浜辺に座ったりする。 

浜辺ではコーラ売りのおばさんが、旦那と思われる人からDVを受けていた。

「 そうか・・・・いろいろあるよな。 ベトナム人も大変だな 」

ん、元気出てきた。 明日は別の街に行こう。

 

6日目くらい

さて、普通の街に行くのも面白くないので、地球の歩き方にのってるけど、半ページくらいの小さな町に行こう。

バイタクに交渉する「 すっげぇ遠いけど5000円くれたらチャレンジするよ 」

そうか、遠いか。 また、シンカフェのお世話になろう。 

冷房つきの広々としたバスに乗って、よくわからない街におろしてくれと頼んだ。

そこまでのお金を払っておけば、バスガイドのおじさんがおろしてくれる手はずになっていた。

快適すぎてつまらない乗り物に乗って数時間、「 そろそろじゃない? 」とおもったが、バスは止まらずに動いている。

・・・・・あのおじさん、忘れているな・・・・・

まちがいなく、途中の辺鄙な街で降ろす日本人のことを忘れている。

 

・・・・・・わはは、わははははっははhhっはっはははははははははははははははっははははあ!!!!!!!!!!!!!!!!

なんだこれ!!!たのしい!!!!!!さっきまで以降とも思わなかった街に、なんだか行こうとしてる!!!!!!!たのしい!!!!たのしい!!!!!

なんてテキトーなんだ!!!!わあわはははっはははっはははあ!!!!

 

という感情がブワーっと沸いてきた。

案の定バスはダラットという街についた。 何も言わずにバスを降りた。

 

ダラットは避暑地、上品な感じだ。 バイタクのおじさんに宿を紹介してもらう。 はじめてのドミトリーだった。

 

ダラットの街はすぐ好きになった。 市場がでっかいのである。

寄せ集めの個人商店が延々と続く。 

気の向くまで散歩した。

標高が高いので、やや寒い。 ほっと牛乳の屋台があった。

日本人に出会う。 やや年配の女性2人組みで、どらえもんのTシャツを着ていた。

少数部族の人たちが、自作のバッグを売っていたので買う。 

 

7日目くらい

さて、ホーチミンに帰ろう。 バイタクのおっちゃんにバス乗り場までつれてってもらう。 マイクロバスに乗り込む。 シンカフェの快適バスとはえらいちがう、庶民の足って感じのバスだ。

3人がけのいすに4人つめこんで、「 どこから来たの? え! 日本人! これ食べなさい! これも!! 」と周りのおばちゃんにもてた。

乗車率300%は超えてそうなのに、バスガイドは身を乗り出して客寄せしてる。

だけど、とても楽しい。

 

ひさしぶりのホーチミンは、すっごい都会な感じがした。

同じ街に帰るのはよそう。 白人同士のセーフティな感じがいやになってきたのだ。

中華街に行き、1800円くらいのホテルに泊まる。 エレベーターの壁がむき出しだが、いいホテルだ。 怒涛と流れるバイクの流れを横切って散歩する。

ベトナムは中国の影響がつよい。 華橋と思われるおじさんたちがいっぱいいた。

市場も中華様式だった。 道路は土と水溜りで汚いが、どの国も最初のエネルギーのあるときは、こんなもんだったんだろう。 いかにも「 これから発展するぞ! 」という気合の感じられる街だった。

夜、サトウキビジュースをのんでいたら、歌丸師匠そっくりの華僑に話しかけられる。

メモを使えば80%くらいの意思が通じることに驚いた。

我々は漢字圏に住んでいるんだなと思った。

 

8日目くらい

ホーチミン観光

フォー屋台の注文の仕方がわからなくてまごついていたら、

土木作業の休憩中っぽい人に注文の仕方と食べ方を教わる。

若いバイタクの兄ちゃんと女の子を追っかける。

市場で可愛い子を見つけたので、買い物ついでに話す。

戦争博物館に行く。

まだ空いてなった、近くの公園で時間つぶし。

手投げゲートボールのような遊びをやってる人。

プールで泳いでる人。

「 おれは日本人と友達だ 」といって

地球の歩き方に「 この人は悪い人ではありません 」とかかれた

日本語を見せてくる人がいた。 

戦争博物館に入る。 壮絶。

夜になったので、そこらへんを散歩して飯を食う。

大体、横の人に話しかけられる。 今日は若者3人組だった。

ベトナム式飲酒で、交流を深めた。

 

それから

中華街のホテルで出発まで泊まる。  合計3泊ぐらいした。

飛行機は無事に飛び、結局食あたりもなかった。

当事のベトナム人はみないい人ばかりで、怪しいのはすぐにわかる、

日本語をしゃべってくるのだ。 ばればれ。

今では結構ぼったくられたり、危険な目に会う人もいるらしい。

そこらへん注意されたし。

 

最後に

記憶だけでだらだら書いていたら6000字を超えてしまった。

15年も前の話なのに、いろいろ印象的な事柄が多かった。

こうして思い出してもメリットだらけ。

いまやってるカヤックガイドのようなことを、もっとブラッシュアップさせる

ために、あの時見たベトナム人のエネルギッシュな行動を真似せんといかんと思う。

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